詩手帖の話、つづき。
実はきのう書くつもりでいたのに、ついグングンちゃん!の話になってしまったから、あらためて、いさ。
70/12の'71年鑑をぱらぱらと見ていて、何が懐かしかったといって、金井美恵子の『春の画の館』。
見ずに転ぶは浮世の運命(さだめ) 身すぎ世すぎが浮世の規則(きまり) 嬉しく泣くのよあたしの深奥(あそこ) なんてのを臆面もなく人に朗読して聞かせていたのだった。なんてこった。そいう時代だったのですっ。
そして白石かずこの『聖なる淫者の季節』。これはしっかりその詩集まで買ったのだった。白石かずこのケバさが好きで、たぶんいまだにケバいんでしょう。いま白石かずこっていくつなんだ? ちょいとチャラチャラしていて、コアな詩人連中からは疎ましがられてたようなところがあったな。でもジャズ喫茶でズージャをバックに詩を朗読してみせたり(その現場にはついぞ行くことがなかったけど)、ボクはそういうチャラチャラ加減が好きだったのだ。思えば、昔からチャラチャラしたケバい女が好きだったのだ。
「時はクル・セ・ママである」ということばに、ジャズ喫茶でクル・セ・ママを聞きまくってた。コルトレーンの真っ黒な額に流れる汗を想像して....。ふっ、青いな。なんだかこう書いていて気恥ずかしくなってくる。それでもいまだにラブ・シュープリームよりも、ブルー・トレインよりも、クル・セ・ママが好き。それは追いつめられたrestlessな落ち着きをもたらせてくれるからか。そして潮が引くように、やがてジャズを聴くことも、薄暗いところで詩集を読むこともなくなっていった。それは薄暗闇から現実に引き戻されていった、というボク自身の過程でもあったかもしれない。それでも7年はたち 7年はめぐる すべては 春でなければならない 人が死ぬのも 恋が 生きたまま埋められるのも 桜の木の 生あたたかい命の首のまわりで すべては 春に はじまるのだ
という書き出しには、30年経ってもぞくっとクル・セ・ママ。
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