津 軽

 やはりきっかけは太宰の「津軽」なんだろう。高1の時、3カ月間、肺炎で入院していた。太宰との出会いはその入院中、いわゆる太宰を立て続けに読んだ。まず「斜陽」。当然のことながら当時文学少年をきどっていたボクはひどく興奮してしまって、ちょうどそのときつきあっていたA子が見舞いに来てくれたとき、「これは面白いで、絶対読みや」なんて言って勧めた。そして病院から抜け出して、「ヴィヨンの妻」「人間失格」をすぐ買ってきて、2、3日のうちに立て続けに読んで、思いっきり滅入ってしまった。元々すぐ影響されてしまう質なので、「人間失格」を読み終わったときにはすっかり暗くなって、う〜んこれでは人間が本当にダメになってしまうと、また友達が持ってきてくれたエロ本に戻ってしまった。A子はというと、「斜陽」をボクに勧められて読み始め、それ以後も何だか知らないけどずっと太宰を読んでいたようだった。退院してしばらくすると、あれだけ見舞いにも来てくれていたA子の様子が何だかおかしくなり始めていた。
「どうしたん、ずっと太宰ばっかり読んでるんとちがうん。あれ、いい加減やめといたほうがええで」
A子はただ首をふるだけで、それには答えないで、それからしばらくしてきっちりボクはふられてしまった。ふられてしまってからボクはまた「晩年」とか「津軽」を読み始めた。
新潮文庫の「津軽」を一冊持って、津軽に向かったのは、北海道へ大学受験に行った帰り道だった。文学少年だったはずのボクはなぜか理科系で受験していた。数学と物理で絶対に行けると思っていたのに、その数学で失敗し、物理も満足できるできではなかった。それでも札幌を発つときにはあれで落ちるはずがないやんかとつっぱってみた。夜に函館に着き、連絡船が出るまでの間、函館の街の中をうろついてはみたけれど、一人で歩く函館の街はとてつもなく暗かった。さみしい喫茶店でたばこを吸っていると、映画音楽、その頃サントラなんて言葉もなかった、「栄光への脱出」が流れていて、そうやん俺は栄光へこれから脱出するねんやんかと最後のいきがりをみせてはいたけれど、いざ連絡船に乗り込む段になって、あぁこれで北海道も見納めかな、なんてやっぱり沈み込んでしまっていた。
0時発の連絡船は混んでいてたまたまシートで横に座っていた東京へ受験に行く同じ受験生とそのまま青森までずっとしゃべっていた。もちろん彼の前では大見得をきって、入試なんて楽勝、楽勝と言っていたと思う。
青森でその彼と別れて、再び一人。三厩(みんまや)行きの列車に乗り込む。津軽はその夜、吹雪いていたのか、窓は吹き付けられた雪がびっしり着いていて外は見えない。それでもその外が見えない窓をじっと見ていると、ようやく明け始めたらしく、ふきつけられた雪の隙間がどんどん黒から青に変わっていった。列車はゆっくりと動き始めた。
 列車が蟹田の駅に着く。蟹田で降りたのは太宰が「津軽」を書いたとき鉄道は蟹田までしか無く、その先龍飛までぶ歩いたんだっけ。太宰は結構ブルっていたからクルマだったかなぁ、いま「津軽」見あたらないのでわからない、とにかく蟹田で太宰が何かしたというふうに書いていたな。だからボクも蟹田で降りた。
 駅を出て正面の通りを歩く。ちょうど通勤、通学の時間で、すれ違う人たちはまぎれもなく津軽の人たち、その頃からかっこつけたがりのボクはダッフルコートを着てはっきり都会の人間とわかってしまう。津軽の人たちはこの朝早くに突然やってきた異邦人にいぶかしげな目を向け、足早に駅へ向かう。反対にボクは黙って海に向かって歩く。3月はじめとはいっても道にはしっかり雪が残っていた。
 海岸まで出てそこから海に沿ってしばらく歩くと、丘の上に太宰の文学碑がある。そんなものがあるというのをどこで知ったんだろう。いま考えると不思議な気がする。丘にあがる階段を上がっていく。たいした見晴らしもないところにその文学碑はあった。文学碑なんてのは特にたいしたものでないし、むしろ退屈なものでしかない。いまならバイクで行っても、あ、ここに文学碑があるのね、とさっと走り去ってしまうに違いない。そのときだって、文学碑まで行ってはみたものの、ふーん、かつてここに太宰がやってきて海を見たんだ、ふーんとしか思わなかった。
 再び駅まで歩いて戻る。この間誰と口をきくでもなくじっと異邦人であることを味わっていた。
 その頃のボクはどこでもヒッチハイクできるものと思っていた。津軽線の終点、三厩(みんまや)で列車を降りて、すぐ歩き始めた。源義経が平泉からここ三厩にまで落ち延びてさらにここから北海道へ渡ったという伝説が残っていて、三厩というのも義経が馬を繋いだということから名前がついたとか、その伝説になった海に突き出た岩もあった。でもほとんど記憶に残っていない。海に沿って歩き出したのはいいけれど、乗せてくれそうな車など全く通らない。三〇分ほど歩いて諦めた。こうなったら先端の竜飛まで自力で歩いてやろうと決めた。決めてしまうと気は楽だ、車がボクを追い越して行こうともう気にならなくなった。道は平坦にひたすら海に沿って続いている。春になりかけて再び戻ってきた冬の空はどんよりと低く雲を垂れ込めて、目と同じ高さの海はひたすら黒い。そしてときおり横から風が雪を吹きつけてくる。いま思い出してみると、あれはあの歳でないとできなかった、それほど青かったとしみじみ思う。あの数時間、ひとり押し黙って黒い海を見続け歩き続けたのはボクのひとつのステージだったように思う。そんな自分というのがたまらなくいとおしい。
 すっかり冷え切ってしまって竜飛の集落が見えてきた。集落の向こうには岬の上に立つ無線所のアンテナも見えてきた。灰色の空の中でじっと耐えているようだった。もうほとんど気力が尽き果てていて、岬の先端に立とうなどという気は全く起こらず、奥村旅館にとびこむ。ここは当然、かつて太宰がこの竜飛に足を運んだときに投宿した宿だ。予約もなくとびこんだけれど、ほかに宿泊している人などいなかった。旅館の居間のような部屋に通してもらい、すぐ炬燵に入った。
「ときどきこうしてうちに訪ねてくる若い人はいますよ」
つくってもらったラーメンをすすりながら、旅館のおかみさんと話する。そういえば津軽に来てはじめて地元の人としゃべっていたのだ。
「先生」と言ったのか、「太宰さん」と言ったのか、思い出せないけれど、「『津軽』の中で先生が書いてられるのは、わたしの母のことです」と聞いて、あわてて持っていた文庫のページをくった。いま『津軽』を捜してみたけれど家のどこにあるかわからないので正確に引用できないけれど、標準語のきれいなおかみさんだったと、そしてすぐ近くでおかみさんの子どもが遊んでいた、可愛い子どもだったというようなことが書かれていた。
「そうすると、ここに書いてある子どもというのはおかみさんのことですか」と尋ねると、「そうです」とちらっと照れたような返事が返ってきた。
「ああ、そうなんだ、ここに書いてあるとおり、津軽弁じゃないんですね」
それから部屋に通してもらい、「ボク、きのうから全然寝てないのでちょっと寝させて下さい」とすぐ蒲団にもぐりこんだ。昼間だというのに真っ暗な部屋だった。
 今でこそ竜飛から小泊の間に竜泊ラインという国道がついているが、その頃は海岸 に沿ってやっと人が歩けるだけの道だけしかなかった。それを歩いて行こうと思った。そのことを旅館で話すと、とんでもない、それは自殺行為だ、悪いことは言わ ないからずっと戻ってバスで行きなさいと言われた。太宰だって『津軽』の中では いったん青森のほうへ戻ってる。しかたなくまた三厩まで歩いて戻った。
やはり帰りは往きのような悲壮感もない、あいかわらずどんよりした曇り空ではあ ったけれど、風もなく淡々と歩いた。もうすぐ三厩というところになって列車の時 刻が気になり始めた。道にいた婆さんに「おばちゃん、駅まであとどれくらいある やろぉ」と思いきり大阪弁で尋ねた。婆さんは怪訝そうな顔をしているので、あ、 そだそだと思い直して、ゆっくり「駅まで」と言い直すと、
「ずっぶん」
「えっ」
「ずっぶん」
ひょっとしてこのときはじめて生の津軽弁を聞いたのじゃないだろうか、10分。 駅に着くと列車の時刻の寸前だったけれど、5、6人のおっちゃんたちが待合い室 のストーブの回りに坐っていた。「きしゃこがぁ・・・」ほとんどわけのわからな い、辛うじていくつかの単語で、雪のために折り返しの列車が遅れていることが理 解できた。全く口をはさむ余地もなく、おっちゃんたちの会話を風景として見てい るだけだった。
ようやく青森に戻ってきたとき、ちょうど入れ違いに乗り継ぐはずだった奥羽本線 の列車が青森駅を出てしまった。おかげで次の列車まで1時間ほど待たされた。そ の間に金木の斜陽館に予約の電話を入れる。これからだと夜の8時頃になるから食 事はいらないと伝えた。まる一日以上人気の少ないせいか、青森の駅の構内は北海 道への人達も含めて交錯していて、なぜか行き交う人達を見ているとほっとした。 窓は人いきれで曇っていた。
すっかり暗くなって青森から弘前のひとつ手前の川辺で五能線に乗り換える。今度 は下りの急行が遅れているからと、発車はそれの到着待ち。ちっ、津軽線の鈍行が 遅れても待たずにでてしまったくせに。やっとのことで五所川原に着いたときはも うすでに津軽鉄道の最終は出てしまっていた。まさかこの時間から金木まで歩ける はずもない、しかたなくタクシーに乗った。
タクシーはほんとに真っ暗な中をまわりに何もない道を走っていく。ライトに照ら された道は真っ白く雪に埋もれ、道路脇は1mほどの高さの雪の壁。周囲になにも ないだけに一本の道が切り取られたようにくっきりと浮かび上がっていた。
 金木の斜陽館、太宰治の生家がそのまま親戚の者が旅館として経営している。 太宰が使っていた部屋は客室となっているわけでなく、そのまま保存されている。 「自由に見ていってください」と言われて、朝食の後、その部屋を見た。
金屏風だったか、金張りの襖だったか、津軽の豪士の息子として生まれ育った太 宰の屈折がはじまった部屋。そのときのボクにはう〜んここがあの憧れの太宰の 生家なんだとゆう単純な感激しかなかったような、しかし宿の人達の態度に何か よそよそしさも感じて、どうしてあの太宰の部屋をもっと大切に扱わないのだろ うという疑問が残った。その答えは太宰の作品のなかのあちこちに散らばってい たのがわかったのは、その後、大学に入ってひとり下宿で読みふけってからのこ とだ。
金木から中里までダルマストーブが列車の中にあることで有名な津軽鉄道に乗っ た。鉄道マニアたちがそのためにだけ乗りにやってくるダルマストーブだけれど、 ごく当たり前にしかない。単に津軽の人の中で生活の一部としてしか存在してい なくて、かんかんに燃え盛っていることもなければ、人達がその回りを取り囲ん でいるわけでもない。ただ列車の中にあるということだけのものでしかなかった。 中里から小泊へバスに乗る。
    「やっぱり北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂いが  無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きている。東海岸の龍飛などに較べると、ずっと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話しない。やがて、十三 湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮かんでいない。ひっそりしていて、そうしてなかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。」
バスから見える景色は真っ白だった。その白に同化してしまうようにボクの頭の 中も真っ白くなり始めていた。
小泊に着く。当時では津軽半島の西側の行き着ける果て。小泊の人には申し訳な いけれど、朽ちかけたような板で囲われた背の低い家がかたまっていて世の中か ら置き去りにされたような雰囲気に息がつまりそうになる。ボクの居場所などど こも考えられず、30分ほどあとの折り返しのバスでそそくさと逃げ出した。
最後のあがきにバスの車掌に十三湖が日本海へ開いている十三湖大橋への分岐で バスを降りるからそこに着いたら教えてほしいと頼んだ。再び小高い丘から十三 湖が見えてくると、凍り付いた湖面は真っ白で、あ、いや、湖面がどこまでかも わからないひたすら白い茫洋とした風景のなかではもう限界だった。車掌が合図 してくれたけれど、もういいんだって黙って首を横に振ってしまっていた。
さっさとこの世界から抜け出したいと、一目散に弘前から東京の雑踏をめざした。
[96/04/16 03:55]


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