maggot's favorites #16



赤坂真理
コーリング
河出書房新社 '99.6.7



赤坂真理『コーリング』を読んで
            高校二年ボケ組 荻原佳奈子

 主人公の女性は、自分の腕をナイフで傷つけることで生きています。だからといって、手首を切ることで自殺したいわけではなさそうなのです。狂言自殺をしようというのでもありません。とにかく自分の趣味でもあるかのように、ひたすら腕をナイフで傷つけようとします。
 『ナイフがそれを切断するときの音は、微かだがたしかにあって好きだ。』

主人公は、ナイフで自分自身を傷つけることで、だれかが、自分をコーリング、つまり呼んでくれると信じているようなのです。
 主人公自身は、自分から人を呼ぶことはできないのだと思います。
 『無言? ただ泣く? 「血を流すのを見てほしいの。ずっと、あなたに見つけてほしかったの。」?』
 と、いうように、主人公は人をコーリングすることができなくて、そしてどうすれば、人が自分をコーリングしてくれるかのか迷っているのです。そうして、自分自身を傷つけて、血を流すことで人からコーリングされることを待っているのです。
 主人公は絶望的に他人から見離されている、または見離されていると思い込んでいるようです。そして彼女が恋愛、といっていいのかどうかわかりませんが、その対称としているのは外科医なのです。自分自身をナイフで傷つけるだけではもう誰も彼女をコーリングしてはくれません。最後に残されたのは、仕事としてでも、彼女の傷を縫合してくれる外科医だけなのです。外科医だけが彼女をコーリングしてくれるというわけです。

 人を傷つける、自分自身を傷つけるというように、「傷つける」というのはどういうことなのか、しかもナイフで腕を傷つけるというのはどういうことなのか考えてみました。
 ナイフで自分自身を血を流すまで傷つけたり、人を傷つけるというのは、現実にそうそうあることではありません。ところが、「傷つける」「傷つけられた」というとき、それは、精神的に傷つけるというのはよく聞きます。つまり実際にナイフで傷をつけるのでなくても、人と人のつながりで、傷つけたり、傷つけられたりというのはよくあります。
 そして、それはいまよく言われている「いじめ」というのにもなるのかもしれません。いじめられっ子になると誰からも相手にされなくなったり、時には、いじめられること(傷つけられること)で、自分は学校や社会から存在を認められていると信じようとしています。それでもなお無視されたりしたら、自分自身をいじめる(傷つける)ことで、人から、自分がいることを認めてもらおう、つまりコーリングしてもらおうとするのです。
 『生きているから、ここにいる。』
 そうしてさらにこれは、「いじめ」ということにとどまらないとわたしは思います。
 いじめに発展したり、また実際に暴力事件に発展したりなどと、その程度の差こそあるにしろ、人と人の関係というのは、人を傷をつけ、人から傷つけられることで、お互いコーリングしあえるところがあるとわたしは思います。
 それは主人公の対象が外科医に向けられて行ったように、外科医はその傷をいかに治療してくれるのか、そうして小説のラストに、外科医の彼は主人公に、ラテックスのゴム手袋を二重にはめさせ、
 『ラテックスの外皮を、彼は持ち上げべろりとむいて、中から無傷のラテックスで覆われた私の手を出した。』
 考えてみると、わたしたちはいつも何重にもラテックスをまとっているのかもしれません。そしてその外側のラテックスを傷つけ、より内側の自分自身にせまってきてくれる人をいつもコーリングしているような気がしてならないのです。
 『私が身体だと思っていたものはこんなにすぐ組み替えられて欠損も、空白も、私からうしなわれたものではなく私の持ち物なのだ』
 

2000/08/21