maggot's favorites #9



久世光彦
陛下
新潮文庫 '99.3.1



 弓が部屋へ戻ったら、どこから入ってきたのだろう、猫の蝶次郎が、さっき脱いだ弓のお腰の上に坐って咽喉を鳴らしていた。こんな界隈で育っただけあって、助平な猫だ。今夜はこの猫を抱いて寝よう。明日からはまた精出して男と寝よう。布団に入りしなにふと鏡台を覗いたら、鏡の中に、狸の尻尾みたいな眉の、愛くるしい弓ちゃんがいた。おやすみ、弓ちゃん。ついでに、おやすみ、剣持さん。 ―― 鏡の前の千両の実が、つやつやと光っている。
 
緊迫するドラマの連続の中で、ふっと息をつかせるシーンを挿入することなんて久世にとっていとも簡単にちがいない。そういうふうに久世はドラマを演出し続けてきたのだから。そしてボクにはそのシーンが、北一輝に「私は生きている左目で、曠野を見ています。その代わり、見えない右目で、陛下をまっすぐに見ているのです。」と言わせるシーンより、はるかにリアリティのある映像となって喚起させてくれる。幾重にも幾重にもこれでもかと久世によって仕組まれたシーンより、このシーンがカットバックして目の前に現れてくる。弓ちゃんがいとおしくてたまらなくてどうしようもない。
まさに久世自身のことばを借りれば
「男や女についてだって、背が高いとか、細面だとか、切れ長の目だとか――体の一部の特徴についは説明できても、その全体から醸し出される《色気》を、言葉で人に伝えるのは厄介である。ましてや、ゾクっとするような文章の色っぽさについては、尚のこと、表現しにくい」
久世光彦「色っぽい文章」  筑摩書房「国語通信」 1999 No.3 秋号

その「色っぽい文章」にいきなり出会ってしまった、とだけ記しておこう。

99/11/08