つげ義春
貧困旅行記
晶文社 '91.9.30 \1600
宿屋に戻ってからも、私は彼女の視線が意味ありげに思え寝つけなかった。睡眠薬を常用していたがそれでも眠れず、クスリのせいで酒に酔ったような気分でもう一度ストリップ小屋に行ってみると、一回の公園の終わったあとで客席は空だった。私は次の開演まで客が集まるのが待ちきれず、何人集まると始めるのか訊いてみると、最低五、六人ということなので、一人で五人分の料金を払い舞台を独占した。猫も雄は一度出ていったら戻ってこない。友達の家にいた猫が家を出ていってしまってもうあきらめていたら、ひょっこりその猫に似た小さい猫を二、三匹後ろに連れて歩いているのを見たという。それまでエサにもねぐらにも不自由しなかった雄猫がある日、急にふいといなくなる。そうしてまた別のどこかで新しい生活を始めている。 何が満たされないわけでもない、何か不自由なことがあるわけでもない、それでも芭蕉のことばを借りれば「漂泊のこころさめやらず」なのだ。「すべてを擲って」ということではない、「すべてを擲つ」からにはそこにはその先にいま以上の価値を見いだしているに違いない。そうではなくて何の価値も見いだせないまま、ときにいまの自分を否定してみたくなるときがある。 女に言わせれば「男なんて勝手なもんよ」 短編というか、旅行記が十数編、それもどれも温泉に泊まって、海の幸、山の幸に舌鼓をうってという温泉旅行でない。そういうところにもこの「貧困旅行記」と、あれ、もうひとつ何だったっけ、新潮文庫になってるんだけど、その二冊がボクの温泉巡りのバイブルと書いたけど、ひたすらに暗い。ははは、つげの描く漫画自体暗いやんねぇ、地からして暗いんだろう、会うたことはないけど。きっと会ってもぼそぼそっとしかしゃべらないで、なんの会話にもならない人だろう、きっと。 一般の行楽客にはとっては、暗い谷間とちっぽけな滝、中津川の川原は殺風景で、これほどつまらぬところはないだろうが、私はここが、とくに滝やお堂がすっかり気に入った。鉱泉業のことはともかくとして、こんな絶望的な場所があるのを発見したのは、なんだか救われるような気がした。あ、これってツーリングでだかだか走ってるときによく思うよ。なんでこんなところに人は来ないんだろうって、いや、反対になんでこんなもんにふっと立ち止まってしまってるんだろうって。そういう情景というのかな、ふとなにげない他人にとってはどうでもいいような、なんらの価値もみいだせないところにこだわってみたりして、ひとりほくそえんでみる。でもそんなところに男の原点のようなものを見いだしてしまうのはボクだけではないと思う。そうしてぼそっとどこかの温泉、いや温泉場に現れて、まわりになんの痕跡も残さず去って行く。どこかに男のロマンを感じないだろうか。
---- 善人なおもて往生をとぐ |
98/01/06
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