maggot's favorites #1



鈴木いづみコレクション5 エッセイ集
いつだってティータイム
文遊社 '96.12.25 \1800



買うてきたとこやねんけどね、もう長いこと会ってなかった恋人にやっと出会ったような.....
しかし気がついたときには、もう鈴木いづみは死んでしまっていた。

『速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。細く長くか太く短くか、いずれにしても使いきってしまえば死ぬよりほかにない。どのくらいの速さで生きるか?』

といういきなりの書き出しで始まる鈴木いづみはもう死んでしまっている。結局生き急いだのはいづみのほうじゃなかったのか。
最初に鈴木いづみの存在を知ったのは、たぶん71年頃のこと。詩を書いていたKが、「こいつは元ポルノ女優で...」と現代詩手帖かなんかを見ながら話してくれたんだった。そのKもいまどうしてることかさっぱりわからない、生きてるのかどうかも。
とりたてて鈴木いづみがボクの中で大きな位置を占めていたわけでもなく、ボクも鈴木いづみも全然違う場所で生きていた。ただときどき詩手帖かなにかで、鈴木いづみの名前を目にして、確かに読んでいたように思う。思う、とういのはそれすらももう記憶の彼方で、その当時としてはごくありきたりのことしか彼女は書いてなかったから、とりたててインパクトなどなかった。ただそれだけだった。
80年前後に彼女の唯一の長編『ハートに火をつけて--だれが消す』を、そのときも偶然本屋で見つけた。その瞬間、ボクはにっと笑ったのを覚えてる。というのは、そのタイトルが「Light My Fire」そのものだったから(ジム・モリソンも生き急ぎやんなぁ)。すぐに買って帰ったものの、これもその当時のボクにはさしてインパクトはなかった。だからいまもその本はうちの家のどこかにあるだろうけど、どこにあるのかわからない。
ところが1年ほど前だったか、そういえば鈴木いづみっていうのがいたなぁ。あれっきりなんかなぁとふっと思い出していた。その彼女が死んだのを知ったのは去年の夏、インディーズの雑誌に「母、鈴木いづみを偲ぶ」とかいう彼女がたった一人残した娘のエッセイだった。
70年代リバイバルの中で鈴木いづみも再評価されているのだろうか、同じ70年代を生きてきて、彼女の語る極めて平凡なことのひとつひとつがいま沁みてくる。同じ時代の中にあっては、そんなもん当たり前やんけ、とボクの中で済まされてしまっていたことが、当たり前以上に目の前に現れてくる。そういうことばがあちこちから溢れかえりこぼれ落ちてくる。商業ペースと全く離れたところで当たり前のことを当たり前に書きつづける、そういう当たり前のことがより以上のリアリティーをもってボクに迫ってくる。

ところで荒木経惟のカバーの思いきりくさいつけまつげ、そしてこぼれる胸。ちょっとどきっとするやんなぁ。

97/01/19